
色々野暮用ついでに、京都は堀川沿いにある安倍晴明ゆかりの「晴明神社」と、堀川にかかる「一条戻り橋」へ行ってきました。
晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明公をお祀する神社です。創建は、寛弘4(1007)年。晴明公の偉業を讃えた一条天皇の命により、そのみ霊を鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。
安倍晴明は、天文暦学の道を深く極められ、式神を思いのままに操る霊術をも身に付けられておりました。成人されてからは、天文陰陽博士としてご活躍。天体を移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当てられ、朝廷を始め多くの人々の信望を寄せられたと伝えられています。
晴明公は、朱雀天皇から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇の側近として仕えられ、数々の功績をたてられます。村上帝に仕えておられた際には、唐へ渡り、はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれ、帰国後、これを元に日本独特の陰陽道を確立されました。今日、私たちの日常生活の基準となる年中行事や暦術、占法は皆、この時に創られたものです。(晴明神社由緒書きより)

一条戻り橋
「一条戻り橋」のいわれは不思議な出来事に由来していると言われています。平安中期の918(延喜18)年に漢学者(文章博士:もんじょうはかせ)であった三善清行(みよしのきよゆき)が亡くなり、その葬儀の列がこの橋を渡っているときのことです。熊野で修行をしていた三善の息子が駆けつけて、その場でお経を唱え始めたのです。すると、空はにわかに暗雲が立ち込め、雷鳴が響き渡たると、棺の蓋が突然、吹き飛ぶように開き、死んだはずの三善清行が息を吹き返したのです。そんな不思議な出来事があって以来、生き返った、すなわち、魂が戻ってきたということで、この橋を「戻り橋」と呼ぶようになったと言われています。
「一条戻り橋」には、その名前に因んだ言い伝えもいくつかあります。
例えば、婚礼の行列はこの橋を通ってはいけないという言い伝え。これは花嫁さんが出戻らないようにという意味があります。
また、“戻らないように”とは逆に“戻りたい”という意味で、戦時中、兵士が出征する前に敢えてこの橋を渡り、無事に戻ってこれるようにと願ったと言われています。

また、安倍晴明は式神として十二神将を使っていました。常に身の回りの世話をさせていたのですが、彼の妻は 識神(式神)の顔を怖がったので、晴明は十二神将をこの橋の下に隠しておいたともいわれています。

晴明神社には、古い「一条戻り橋」が置かれています。
最近のコメント